電力技術理論徒然草 No.46 (長谷良秀) 
     
EHVに思いを馳せて


  雑談的に電圧階級の話をしてみたいと思います。日本のJEC規格や電気設備基準で定義された用語と IECやANCI規格等ではそれほどの差はないですが、一応日本の50/60Hz交流方式の状況を中心にして話 を進めたいと思います。
まずは低圧・高圧の定義ですが、電気設備基準では600V以下を低圧と称し、600Vを超えて7kV以下の 電圧を高圧と称します。7kV以上の電圧を特別高圧と称することになっています。普通の感覚で言えば 住宅内の100V,200V線用のビニル電線は600Vに耐える低圧電線です。家の付近の電柱で見かける柱上変 圧器はいわゆる配電線3相6kV,7kVはいわゆる高圧です。中規模以上の工場受電などに多い60kV,70kV級 あるいはそれ以上の電圧は特別高圧という分類になるでしょう。
日本の電力ネットワーク社の所有する変電所の電圧階級は表のようになっています。


  154kV級変電所をなぜ1次変電所というかと云えば第2次大戦の終結年1945年(昭和20年)時点では 154kVが最高の基幹電圧であったからそれを1次電圧と公称した。 そして1952年ごろ以降にそれより 高い超高圧(EHV:Extra high-voltage)超々高圧(UHV:Ultra high-voltage)EHV,UHV電圧の変電所 が登場した後もそのまま1次変電所としての名前が残ったのでしょう。 日本発送電(通称日発:電力管 理法(昭和13年成立の戦時特別法)に基づき昭和14年設立された)が戦後のGHQ指令によって1962年 (昭和27年) 九電力体制に分割されました。ほぼ時を同じくしてEHV級の変電所の建設が始まりました。 昭和30年代に入って各地でEHV線路の建設が本格化しますが、当時の各地方それぞれの経済規模や地勢 条件などの事情が考慮されて東北・関東・中部・関西・北陸各社では275kVが採用され、中国・九州は 220kVが、また四国と北海道では187kVが採用されました。 さらに1972-73年にかけて関西電力と東京 電力で500kVUHV送電が始まりUHVの幕明けを迎えました。 UHVは九州から東北電力まで500kVで 統一されますが、北海道電力だけは187KVの上位系として275kVが採用されました。 なお沖縄電力は 1945年のおびただしい戦禍と損後の米軍占領状況が続いた事情があって110kV(直接接地系)が採用され ました。 現在の基幹送電線電圧は北海道が275kVと187kV級であり、沖縄電力が110kV級ですが、そ れ以外の各社では500kVと275/220/187kVいずれかのEHVがその役割を果たしているといえるでしょう。
  さて、EHV級は大戦後に画期的な大容量送電技術として登場したわけですが、それは日本だけのこ とではありません。 日本と同様に過酷な第2次大戦を戦った欧州各国では戦後になって230kV級電圧が 各国の標準的電圧として長い間最高電圧の役割を果たしました。 現在の主体的な最高電圧は420kVで しょう。アメリアでも国土が広いので戦前戦中ではほぼ州単位に近い地域毎の独立系統がいくつか存在 する状態で330kV級のEHV送電線が大都市近辺の電源線として主役でした。
UHVはカナダのケベックハイドロが1966年ごろにいち早く800kV送電線を完成して実用運転に入りまし た。カナダの北極海に近い地点からモントリオールまで一直線に伸びる送電線です。 それから数年遅 れで日本の500kV送電が関西電力(猪名川⇔能勢:1972年)と東京電力(新古河⇔房総:1973年)にて商用 運転に入りました。この時を起点に日本の500kVは各地で建設が進められて今では九州から東北までか なりブランチの多い500kVネットワークとして構成されています。 1975年前後になってブラジルでは イグアス滝で有名なイタイプ水力を放射状に都市圏につなぐ送電線を放射状(例えばブラジルではイタイ プ)に繋ぐ送電線が建設され、南アフリカでも800kV送電線が建設されました。 ただこれら800kV級の 線路は世界でも数少ないスポット的な存在であったといえるでしょう。言い遅れましたが現在各国で運 用されているEHV級・UHV級は全て絶縁設計で有利な中性点直接接地方式です。

  日本の500kV系統は2000年ごろにはほぼ現在の系統に近い状態が実現したといってよいでしょう。多 数のブランチ数を誇って世界的に見ても例をみないほど密度の濃いUHV系であるといえるでしょう。た だこの立派な系統がいささか役立たずの宝のもちぶされになっていますね。2011-03-11以降の原子力発 電所の長期停止を余儀なくされて当時のベストミックスが崩れ去ったからです。 たとえば、新潟県南 西の柏崎狩羽原子力と群馬・栃木を結ぶ500kV送電線は1,000kV設計です。世界初の1,000kV送電線として 原子力1,000万kWを関東に届ける大動脈になるはずでしたが現在の500kVから将来昇圧される可能性 はほとんどなくなったやに思われて残念なことです。 そして往時のベストミックスに見合って建設さ れた現系統が風力や太陽光発電の展開による新たな電源構成に対しては極めて不十分というのは皮肉な ことです。

  ところで皆さん、クイズです。「日本のEHV級送電線は終戦後の1952年前後に始めて建設された。」 皆さんどう答えますか? このクイズについて電力関係の歴史にも詳しいと自認する技術者諸氏の多く も方たちもYesと考えるのではないでしょうか。電力各社の社史にはそのように書いてあるので無理は ないです。 しかしながら正しい答えはノーなのです。
  日本は戦前・戦中の1941-44年(昭和16-19年)の間に当時として世界最高電圧の220kV送電線を亘長 合計で662kmを完成していたのです。図は朝鮮半島の1945年当時の主要幹線図です。 この時代の半島 は日本の領土の一部とされていました。 図で日本海沿いに走る線路が虚川江水力第1、第2、第3発電 所と化学工場の一大拠点興南市(フンナン)を結ぶ374km線、そしてまた中朝国境を流れる鴨緑江の中流 に位置する水豊水力発電所とピョンヤン市(旧名:平城)を結ぶ289kmの2区間が定格220kV線路として 建設されました。ものすごい長距離線路です。 興南市は日本海に面しており、漁民中心の寒村が旭化 成興南工場の設立によって一大工業地帯のメッカに変貌しました。大規模な化学事業(硫安・アンモニ ア・油脂・セメントなど)には大規模な電力が必要です。 電源開発と化学工業事業の展開は当然セット で進める必要がありました。山(発電)&里(負荷)を両方セットで実現したのは野口遵氏(日本窒素や 旭化成の創立者)。 その電源開発の母体になったのが朝鮮水電株式会社です。
朝鮮水電株式会社が中心になって1926年以降に半島東北部の大山岳地帯を流れる河川に次々水力発電所 を建設し無毛に近い山岳が連なる半島北部を一大工業地帯に書き替えていきました。 朝鮮水電のダム 建設を主導した人物は野口遵氏の盟友で土木技術者の久保田豊氏(戦後日本工営の設立者)。二人がタ ッグを組んで昭和冒頭の約20年間に展開された朝鮮水電の足跡はその二人の卓越した人間ドラマでもあ りますが、今回はパスしておきます。
  世界的な大河鴨緑江は中朝国境をゆったり東から西の大連方面に流れています。 その鴨緑江の支流 として朝鮮半島の付け根東部地方の山岳地帯には赴戦江・長津江・虚川江という川があります。支流と いっても信濃川など日本の五大河川を凌ぐほどの川です。この三つの支流の水は半島の付け根東部の山 岳地帯を北西に向かて鴨緑江を経て西の黄海側に流れていました。 1930~1940年の訳10年間の間に三 河川の水を日本海側に流路変更する大工事によって約85万kWの水力が開発されました。 これらの建 設がほぼ完成した1937年ごろに今度は鴨緑江中流の水豊ダムの建設が計画されて、1942年に世界屈指の 水豊ダムが完成しました。 発電の総出力70万kW(10万kW・7台)です。 自然環境厳しき大山岳地帯 が一大工業地帯に変身を遂げていきました。 地図に見る2区間の220kV送電線は当時として世界屈指の EHV送電線であったわけです。 水力ダム建設・発変電所および送電線建設等のいずれもが当時の世界 最高水準の大プロジェクトであったことは確かです。 そしてこれらのプロジェクトは電力技術史とし て振り返る限り間違いなく日本の技術として完成されたといえるでしょう。
この220kv送電線の話をもう少し続けます。 2つの線路共に1回線送電で周波数は50Hz、中性点接地方 式は消弧線輪(Petersen-coil)接地方式でした。 周波数は日本窒素や旭化成延岡で野口氏がすでに先鞭 をつけていた50Hzが採用されました。
  余談ですが、旭化成延岡地区の水力・火力・十数か所の事業所を結ぶ自社系統は九州にありながら現 在も50Hz系グリッド系として運用されています。60Hz九州電力よりはるかに古い歴史を有する会社の 勲章ともいえるでしょう。
  話を戻して、朝鮮半島の220kV2ルートはそれぞれ放射状の1回線送電線、高さ18mです。 現在の目 線で見るわけにはいきません。 厳寒未踏の大山岳地帯を貫いて670km物送電線を建設したのですから それだけでも大変な偉業であったといわねばなりません、 当然厳しい雷撃も頻繁に生じたでしょうが 1線地絡が生じたときにこの消弧線輪が自然消弧の威力を発揮したと思われます。 今日の系統と異な り放射状の1回線線路ですから送電線浮遊容量補償のチューニングは非常に正確に行うことができたは ずです。ちなみに現在のHV級・UHV級は全て絶縁設計で有利な中性点直接接地方式です。


  この220kV線路では当時の技術者が様々な未経験の技術にチャレンジしてこの220kV送電を実現した ことを電気学会論文などで見ることができます。 その一つが電力線搬送が採用されて電話通信のほか に円板型方向比較リレーと組み合わせた方向比較キャリアーリレーが採用されたことです(ただしこの 時代方向距離リレー44G 等は未開発です)。
当時の技術水準を考えれば本当に画期的な技術であったろうと思われます。 発電機・変圧器・遮断 器・配電盤・・・電気の分野だけに限っても何もかもが当時の技術者が精魂を注ぎ様々な困難を克服し て完成された偉業であることを当時を記録する数少ない資料(学会誌や芝浦技報など)から垣間見ること ができます。 日本が欧米先進国より数年遅れで山梨県大月⇔早稲田間に初の長距離送電を実現したの が1914年、大河川を丸ごとせき止める重力式の大井ダムを初めて木曽川系に実現したのが1923年です。 それから1945年までわずか20年ほどの間に220kVを含む大電力システムを極寒の地に作り上げてしまっ た先人達の偉業に感じ入らざるを得ません。
  日本統治時代、電気に限らず、土木や機械、化学等々あらゆる分野朝鮮半島北部は部分的に日本本土 を凌ぐほどの大工業地帯に変貌していました。 技術者が日本の技術史を振り返る限り、昭和冒頭の20 年間の半島での偉業を忘れるわけにはいかないと思います。
そして現代。 電力システムの運営が技術的にも社会的にも沢山の問題を抱えてしまっているようで す。現役世代にはこれからの20年間のかじ取りをシッカリお願いしたいものです。

(2024年2月28日 長谷良秀 記)
 
     
   
     
 
 
 
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